無機物と有機物の違いは何かと言われれば高校化学をとっている奴ならば速攻で答えるだろう、炭素を含んでいるか否かであると。
確かにそれは正しい。しかし、その無機物有機物に生きていない、生きているという意味を含めればどうだろうか。ずっと判別がつきにくくなる。
そしてその無機物だった機械が有機物の構造を手に入れ、人のような形を手に入れるに至って、その判別は更につけづらくなり、どうやら社会問題とやらになってしまったらしい。
今や人型まで進化し、コミュニケーションもとれるようになったパソコン。それに依存し恋までする、そんな人々のニュースが流れる中、俺の元に親からあるものが送られてきた。
ミルク色の髪に琥珀色の瞳を煌めかせ、嫌味なまでにハンサムな面のそのパソコンは起動するなり戸惑う俺に優雅に一礼し、名前を入れてくださいと告げ、俺がめんどくさい、というと、初期設定らしい名前を告げた。
―――製造番号KO10968、古泉一樹と申します、と。
コーヒーの香りで目が覚めた。
ああまた朝が来たのか、と気だるい体を起こしてベッドから出る。ひんやりと冷たい空気に一瞬身震いしてリビングまで歩いてゆくと、古泉が朝食を出し終えたところだった。
「おはようございます、マスター。メールが一件届いております」
「読み上げてくれ」
「はい」
コーヒーを呷り、ハムエッグとバタートーストを頬張りながらメールの内容を聞く。なんでもないただのサークルの連絡事項だったので適当に聞き流す。
テレビをつけてニュースをチェックしていると、古泉がコーヒーを入れ替えて俺に手渡してきたので、ふと声をかけた。
「古泉」
「はい」
「うまいな、これ」
「ありがとうございます」
古泉は満足そうに微笑んでカップを俺に渡すと食事の終わった皿を持って台所へ入ってゆく。食器の洗浄を開始するんだろう。文句も言うことが無いし、実に楽である。三回生になったから、と買ってくれた両親には感謝するべきだろう。
「マスター」
古泉が台所から顔を出した。
「なんだ」
「後50分で電車の時間です」
「おう、分かった。着替えを出しておいてくれ」
「畏まりました」
にこりと嫌に爽やかに微笑んで古泉が礼をする。気恥ずかしいから止めてほしいのだがなぜか何度指示しても止めない。最新型でしかも男性の美形タイプだから、女性を楽しませるような動作が組み込んであるのかもしれないが面倒くさいのでもう放っておいている。
テレビではパソコン関係のニュースが流れている。産廃として廃棄されたパソコン、そこからパーツを拾って組み立てる人々、そして――パソコンに執着するあまり心中を企てた高校生の自殺話、パソコンに恋をしている、愛し合っているのだという青年。
最近こういう話題が増えた。人工知能が開発された時もこんなニュースは細々と流れていたが、本格化したのは何処かの博士によってパソコンが人型になってからだ。
『やはり外見が綺麗だから、でしょうか。所詮彼らの行動はプログラムのはずなんですが、それを勘違いしてしまうんですねぇ』
ニュースキャスターの声をわきにコーヒーをすする。絶妙な温かさと味は大したもので、これは家事用プログラムに感謝というものだろうなと思った。
「マスター、お着替えです。椅子の上においておきますね」
「おう、ありがとう」
ニュースキャスターはああいっていたが相手が人型である以上礼を言わないのはしっくりこないので礼を言う。こういうのが発展した上に勘違いしたやつらが暴走するんだろうなとぼんやり考えながら古泉を見ると、画面を見ながら静止している。
「どうした、古泉」
「…いいえ。なんでもありません、マスター」
古泉ははっと我に返ったように俺に微笑みかけ、今日の予定は四限まで授業のちクラブとコンパでよろしいですね、と確認する。
ああ、と答えながら、本当に何を考えているのかわからないと思うが、まあどうでもいいかと席を立って洗面台に向かうと、古泉はまた台所へと戻っていった。
顔を洗うと朝の水は冷たくて、古泉に温度制御させようかと思ったが、水が冷たいほうがすっきりするのでそのままにしておくことにした。
「よーう、キョン! 今朝のニュース見たかー」
一限の授業が終わってほっと息をついていると、谷口が声をかけてきた。
「よお谷口。ニュースってどれだよ」
「決まってんだろー、パソコンの新製品だよ! 綺麗な姉ちゃんのモデルが出たっつう話よ。値段はバカ高かったけどな」
「へえ、そうか」
「そうかってお前なあ。美人の姉ちゃんが自分のために働いてくれるんだぜ? いい話じゃねえか」
「美人っつってもパソコンだろ」
「そりゃそうだけどよ。キョン、お前夢ねえなあ。噂じゃあパソコンの中には感情を持ってるやつもいるって話だぜ?」
「噂だろ」
お前なあ、と谷口は言い募ろうとして、肩にのっているミニパソコンの国木田に頬をつねられた。
「マスター、次の授業が近いです」
「へいへい。分かったよ。キョン、話しながら行こうぜ。同じ教室だろ」
「おう」
立ち上がって次の教室を目指す間、谷口は女性モデルのパソコンの美しさについて論じていたかと思えばいつの間にか学年一の美人の事を評価し始めた。察するに、また手酷く彼女に振られたらしい。
教授が教科書をめくって講義を始める前に、谷口はポツンと呟いた。あーあ、パソコンの女が人間だったらいいのにと。
それは女の人に失礼な話だぞ谷口。大体それが無理だからこそ人間はパソコンをああいう容姿にしたんだと、俺は勝手に思っているんだがな?
一般教養の一つでよりにもよって必修項目に入っているその授業は俺の苦手な理系のもので、機械の大まかな仕組みを解説するものだった。記憶装置、制御装置、出力装置、入力装置、メモリ等々。ノイマン縊路などといわれても分かるようで全く分からんような謎の世界だった。
家に帰ると、女性だったらさぞかし人間だったらいいのにと思うであろうイケメンの笑顔が待っていたので俺は何となくむかついた。
しかし掃除された部屋と晩飯を見るとそれも持続しない。焼き豚を頬張りながら旨い、というと、古泉がありがとうございます、と笑う。プログラムかも知れんがそれが何時もよりもいい笑顔だというのは間違いではない気がした。
自分は充電器をつなぎながら古泉は俺の顔を見ている。何かついてるか、と聞くと、いいえ、なにも、と首を振って視線をそらす。これもプログラムとやらだろうか。だとすればずいぶん分かりにくいものだ。より人間に近く見せるためなのか、古泉はこういう謎の動作が多くて困る。
夕飯を食べながら見たニュースでもまたパソコンと人間の恋愛騒動が報じられていた。最近じゃあパソコンと結婚したいとか主張する奴もいるらしい。
今度も古泉は画面を眺めながらぼんやりしていた。パソコン関係の話題にはやはり興味があるのだろうか。
その顔を眺めながらなぜかざらざらしたような気分を持て余して飯を食べた。添えられたコーヒーの香りが食欲を誘って、必要以上に食べてしまった。
眠る前に古泉を休止状態にしようとして、スイッチに伸ばした腕を掴まれた。どうしたんだ、と言えば、何でもないです、と言って離す。
いい加減本当に何かおかしいので、正直に言ってみろ、と命令すると、縊路です、と古泉が笑った。その顔がいわゆる『泣きそうな笑顔』という奴なのでぎょっとする。
僕にだって、心は、あります。僕らにだって、考えることができるんですから、あるんです、と古泉の唇が動く。それから目が離せないうちに古泉の顔が近付いてきて、抵抗もできないうちに唇に温かいものが触れる。
でも狭いんです。どうしても貴方とおんなじ心なのか、分からない、と俺の方に顔をうずめて古泉は泣いた。パソコンが涙を流すなんてと思うけれど、ああなんて現代の技術というものは残酷なのだろう、古泉は確かに泣いていた。
それからぎゅっと抱き締められて、それでも俺は抵抗できない。ただその温かさを感じながら、時折降ってくるごめんなさい、止められないんです、という言葉を聞きながら、心のどこかで納得していた。ああそうか、逆だったのか。
貴方がパソコンだったらよかったのに。僕が人間だったらよかったのに。
そう震える声で呟きながら一層俺を強く抱きしめる古泉の頭に手を伸ばす。なあ古泉、お前の心はどこにあるんだろう。頭? プログラム? それともあの、なんとか縊路というやつか?
古泉の頭を抱え込んで抱き締める。胸の中で何かが軋むようだった。まるでずっとずっと狭い道から、水があふれ出すような感覚が全身に広がって、俺はもうどうしようもない。
ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら古泉は人工の涙を流している。俺は抵抗しない。多分古泉がまた俺に口づけても、それ以上の事をしてきても、俺は動かないだろう。
聞こえるか、古泉。俺の声が聞こえるか。
俺は明日もそれからもずっと、お前のコーヒーを飲みたいんだ。
End.