スパイスは、愛情らしい。
僕の父が作る食事は美味しい。
普通に美味いだけじゃない。父子家庭での努力と、男ならではの妙なこだわりによって上達した父の料理の腕は、そこらのレストランのシェフの腕と張ると思う。僕の欲目があるにしても、とにかく美味しいのは確かだ。そのおかげかは分からないが、両親が離婚した後、幸いにも片親の家庭にありがちな情緒不安定になる事もなく、変にひねる事もなく、まあ普通に心身ともに健康な成長を遂げた。父には感謝しきれない。
……とまあ父に素直に感謝する僕なのだが、どういう事か妙な問題が一つ残ってしまった。
父の美味しすぎるご飯。それを毎日食べていた僕の舌は、普通の家庭料理では満足できないほどに肥えてしまったのだ。
というわけで。
「ごめんなさい、正直いうとこの料理、美味しくないです」
人生において五番目の彼女の、正直に言ってくれ、という願いに応じて素直にそう答えてしまった僕を誰が責められよう?
「………え?」
「いや、だからその、舌が肥えてまして、僕―――」
……平手打ちされて部屋を追い出されました。
「それはお前が悪い。絶対にお前が悪い」
追い出されて逃げかえったアパート。ちゃぶ台越しに四年来の付き合いの同居人が夕飯の親子丼を咀嚼しながらびしっ、と僕を箸の先で示す。
「そういう時はな、『君が作ったものなら何でもおいしいよ』とか言っておくべきなんだよ。それをなんなんだお前は。イケメンだからって調子に乗るなよ」
「ですが、正直に言ってとおっしゃるもので…」
「甘い。女心が分かってない。正直に言えと表面でいっても、料理が不味いとかは言うんじゃない。
舌が肥えているのがなんだと? スパイスは愛情、ぐらいの心意気で克服しろよ」
「…そ、そんな無茶な」
ため息をつく僕に、溜息をつきたいのはこっちだ、と応えて親子丼を僕に差し出す彼。
僕はそれを受け取り、箸の方に手を伸ばしながら、努力しますよ、と答えておいた。
ほどなくして、次の彼女ができた。ご飯が美味しくないとは決して言わないようにつとめてみた。どんなに口に合わないご飯でも我慢して食べる。
そして今度も彼女は笑って聞いてくる。
「ねえ、私のご飯、美味しい?」
「ええ、美味しいですよ」
「……うそ」
「嘘じゃあありません。君の作ったものなら何でも美味しい――」
「嘘よ! 私にだってそれ位分かるわ! 私はそんなにどうでもいい存在なの!?」
えっとすみません、わけが分からな―――
「いいわ! もう! あなたいつだって私じゃない誰かを見てるのよ! 出ていって!」
……結局、わけも分からず追い出されました。
「それはお前が悪い。彼女もヒステリーっぽいけど」
またそれですか。
そう言うと今度は昼御飯のオムライスにケチャップをかけながら同居人はため息をつき、
「どうせお前、まずいのを無理に我慢してるような微妙な笑顔で美味しい美味しいとか言ってたんだろ?
ほどほどに回数重ねたところでそっとアドバイスするぐらいの要領はつかめよ。要はタイミングの問題なんだし」
「そんな高等なテクニック、とても出来ないですよ僕は」
「まあそれもそうなんだがなあ。でもその私じゃない誰か、というのは気にかかるな。心当たりあるか?」
「いいえ。ありません」
「ふうん。じゃあ勘違いだろうな。いつもうさんくさい笑顔でへらへらしてるから誤解したんじゃないか? ま、とりあえずこれでも食べておけよ。
……あ、そうそう。洗濯炊事の当番しばらくお前な。彼女のとこに泊まり込んだ間のツケがたまってるんだ。おとなしく俺に楽をさせろ」
「えええ……」
その後一週間、炊事洗濯の為に恋愛どころではない日々を過ごしたのだった。ちょっと泣きたい。
そしてまたしばらくして、僕は彼女を作った。彼は性懲りもない奴、と呆れていた。
今度は慎重に段階を重ねた。それをしても良い位、愛情深くてきれいな彼女だった。ご飯もだんだんまずくなくなって、僕はとても嬉しかった。そうして彼女の部屋にいつも通り転がりこみ、幸せに日々を送った。
いつものように不味くないご飯を食べて、カレンダーを見上げると、結構な日にちが経っていた。今度帰ったら炊事洗濯大変そうだな、帰れるか分からないけど、なんてつらつら考えていると、彼女が隣から僕の顔をのぞき込んできた。
「どうしたの?」
「いえ、これって同棲っていうのかな、と思いまして」
可愛らしく笑う彼女が隣にいる。何とも幸せなものである。
だがその日を境に、何故だか突然障害が発生した。料理が美味しくないのだ。味は変わっていないはずなのに、なぜか美味しくない。
隠し味は、スパイスは、愛情。そのはずなのに、何故か可愛い彼女の折角の料理が美味しくないのだ。倦怠期? いやいやそんな事は、と思っている矢先だった。
「あなた、本当に私を愛しているの? そうじゃないわよね。だったらそんなまずそうにご飯を食べないわ。
知ってる? いつも貴方、どこかに帰りたがってるのよ」
「え? どういう事ですか? 僕はそんな、」
「渡さないわ……貴方の心をつかんで離さないその女、とてもいい人なんでしょうけれど…渡さない!」
結果、彼女が持ち出してきた包丁で刺された。どうやら前にもそういう問題を起こしたことがある人だったらしく、警察の人たちは僕に結構同情的だった。
とりあえず自宅療養と決まり、僕は迎えに来てくれた同居人に肩を貸され、怪我をした腹を気にしつつもアパートに帰った。
「これから通院と、あとは安静だって? ああこの役立たず。炊事洗濯のツケどれだけたまってると思ってるんだ」
とかいいながら卵入りのお粥を作ってよそってくれる同居人は優しいなあと思う。なんというか、さすが彼である。
「分かりました。治ってからご期待に添えるよう努力します」
「なら、よし。今回は災難だったな。まあゆっくりやすめ」
「優しいですね、あなたは」
なんだか、じん、ときてそう言うと、
「当たり前だろ。こちとら伊達にお前と同居してるわけでもないからな。大体俺はそこまで人でなしじゃない」
と、男前に微笑んでくれるので自然に頭が下がった。
「有難うございます」
ああ、どうやら僕は怪我をしてずいぶん感傷的になっているみたいだ、と思いながら、心地良い気分でお粥に手を付ける。じゃあ、課題でもしてるから、何かあったら適当に呼べ、と言って同居人は立ち上がる。そこで違和感とよく分からないもやもやを胸中にを感じ、僕はその原因を素直に声に出した。
「あれ? そんな服、持っていらっしゃいましたっけ? なんだか気合いが入っているというか」
「ああこれ? 合コンの人数合わせに駆り出されたから、まあいつもみたいな格好するわけにも行かないかとタンスの奥から色々引っ張り出したんだ。
ま、途中でお前が刺されたとかいう電話が入ったからひけてきたんだが」
「えーと…それは、…すみませんでした」
「嫌みかお前は。大体だな、これでお前を放っておくなんてしたら俺はどれだけ薄情者なんだっつう話だ。気にするな」
「はい。ありがとうございます」
そう答えると満足そうに笑って彼はそばにある机の上にノートを広げる。いつの間にかもやっとした気分はなくなっていた。
ノートの前のプリント、そこに書かれた彼のあだ名とは違う壮大そうな名前をぼんやりと目にとどめながら卵粥を口に含み、口いっぱいに広がる卵のうまみを咀嚼して飲み込む。
……ああ、美味しい。
END
NLリメイクだったりします…。捧げ物。あの時の絵チャットに参加していらっしゃった方々のみお持ち帰り自由です。(持ち帰って頂けるとむしろ嬉しいです。そうして頂けるかどうかは謎ですが…)どうぞ、煮るなり焼くなりして下さいませ。
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