我が輩は猫である。名前はまだ無い。
とかいう有名な一文があることを、俺は人間でもないのに知っている。たまに俺の主人であるミルク色の髪をした優男が何を思ってかたまに難しそうな本を読んで聞かせたりするからだ。
そんな話を聞きながら、なら俺の場合我が輩は犬であるってことになるんだろうな、名前はあるが、などと思いながら古泉一樹というらしいその男が嬉しそうに俺を撫でるのに何となく身をまかせていたわけだが、今現在俺はそういうわけにもいかない事態になっている。
そういやこういう状況も聞かせて貰ったよなあ、カフカとかいうんだったっけ、なんて思いながら手を見るが、残念ながらそれは見慣れたフサフサの毛並みのものではない。しかも視界がいやにクリアで、鼻も少しききにくい。
ここまでくればもうなんか色々分かるが俺は信じたくない。信じたくないが現実だ。
足を動かす。朝日に照らされたそれは昨日までの俺の足よりだいぶ長くて、俺に更にこの信じられない現実を知らせてくるのだった。
朝起きると、俺は人間になっていた。
どういう仕組みか服(古泉が寝る前着ているみたいな奴だ)はあるので寒くない。寒くないのだが、犬小屋の前に人間が犬の真似をしているような体勢で座り込んでいるのが不味いことは分かる。ついでに首輪つきとくればどこの変態だ。とにかく隠れなければ。
しかし茂みに隠れようとしても悲しいかな首輪から伸びるチェーンのおかげで首が絞まるだけでどうにもならない。しかももうすぐ古泉が起きてきて俺にエサをやる時間なのである。可愛がっている犬がよく分からない変態っぽい男に変化とか、それはもうなんというか駄目だろうとにかく。
あの古泉のことである、一発で俺と分かるだろうが処遇に困るだろう。だってこのまま人間でいれば、ドッグフードとか比べものにならないぐらいの量を俺は食べなければならない。しかも人間の戸籍とかいうやつだってないのだ。俺は他の犬ほど飼い主にべたべたしたことはないが、古泉は俺の飼い主だ。それは避けたいものである。
なんとかここから脱出してでも元に戻らなければならない。
とにかく頭を巡らしても良案は思い浮かばず、そしてその時はやってきた。
「…キョン君?」
何故か犬の俺にも『君』付けをするやけに良い声が耳に響く。目の前にはいつも通り俺の気に入りのドッグフードを皿に盛って右手に載せた優男、古泉が目を丸くして立っていた。
「…よう、古泉」
どうして良いか分からずとりあえず挨拶してみると古泉は急いでかがみ込んで皿を置き、俺の首輪を外して立たせる。
「とりあえず中に入りましょう。話はそれからです」
古泉に手を引かれて立ちあがると縁側のガラス戸に映った俺の姿が目に入った。確かに人間の手と足。古泉に比べるとどうって事ない普通の顔。
しかし頭には犬の耳、尻から服をかき分けるようにして出ているのは見慣れた尻尾。
俺、本当にどうなっちまうんだろうか。
「昨日眼鏡の胡散臭い人が来たでしょう。あの人が原因です。全く、わざわざキョン君で実験しなくたって良いでしょうに…」
ソファーに座っていると、台所から出てきた古泉が俺にホットミルクとかいう飲み物をを差し出し、自分はもう片手で持っていた普通の牛乳を一口飲んで溜息をついた。
「ああ、あの…会長って人」
「そうです。だからそんなビクビクした顔しないで下さい。貴方に責はありません。あの人が貴方の水に勝手に薬を混ぜていたらしいですから」
全く困ったものです、と眉を下げて微笑み、再度溜息をつく古泉を見ながらホットミルクを飲んでみる。なんだかんだいって冷えていたらしい体に染み渡って気持ちいい。
これが飲めるのも俺の体が今人間であって人間でないからだと思うと複雑な気分だが、うまいものはうまいのでそのまま飲み干すことにする。
「残念ながら、解毒薬はまだだそうです。ああでも、あの人のことですから一週間以内には作ってきてくれるでしょうね」
だから安心して下さい、と俺の隣に座った古泉が俺の髪を撫でて微笑みかけてきた。ちょっと待てお前、確かに犬の時はこれぐらいの距離感だったかもしれんが、なんだかかなり顔が近いぞ。
「まあまあ。いいじゃないですか」
ちゅ、とそのままだな、俺の髪の毛をつまみ上げた古泉がだな…ああもうなんといっていいのやら!
「お、おまえ、汚いだろう俺の髪!」
昨日確かに風呂に入れては貰ったが、それでも庭にいたんだぞ!? なのにキスとか何のつもりだ!
「そうですね。貴方の毛並みの匂いがします」
まあでも気になるならお風呂に入りましょうか、と言いながら古泉が俺の手を撫でる。それが変にぞくぞくしてもうどうすればいいのやら。なんのつもりだ古泉、俺は犬といっても今は人間だぞ、飼い犬でも男だぞ!?
「つい嬉しくって」
つい、と手からホットミルクを取り上げられ、カップが脇のテーブルに置かれる音がしたのとほぼ同時にどさり、とソファーに押し倒されて抱きしめられる。首筋に顔を埋めてぐりぐりと動かす古泉の髪がくすぐったくて、息が熱くて堪らない。
「あなたが飲んだのは、犬の形状を変化させる薬なんです。犬の脳の信号を読み取って、犬の望む姿に変える。だからこれは貴方が望んだことだ」
人間になりたいって、思っていてくれたんですね。
愛おしそうに尻尾を撫でながら古泉が囁く。心臓が跳ねるようだ。
ああそうだよ思ったさ。人間になってみたいな、と。縁側で本を読む古泉の隣でなんでもないことを言われて言って、そんで撫でられながら昼寝とか、そんな事をしてみたいと。
だって俺は、この男拾われて、この男に育てられて、ずっとずっとこの男に撫でられて笑いかけられてきて、そんでいつの間にかこの男の、古泉のことを、まあなんというか、そういう風になってしまっていたのだ。
「大好きです、キョン君」
古泉が俺の頬に口づけを落とす。俺は抵抗しない。抵抗したくないからだ。
「…ねえ」
キス、唇にして、良いですか?
綺麗な顔で古泉が微笑んで聞いてくる。
俺はなんだか恥ずかしくて顔を逸らそうとしたけれど、でもそれでも古泉の髪も手も気持ちよくて、その幸せそうな顔もくすぐったくて、結局頷くしかないのだった。