やまいだれとぬくもりを
げほん、と咳が出た。ああまあ冬だからなとあまり気にせずに口をふさいだのとは逆の手の黒いピースを盤上において白を黒く染めると、それすらひっくり返る勢いで古泉が立ち上がりつかつかと回り込んで俺の手を握る。一瞬ぎょっとしたが周りを見回す必要もなく、当然長門も朝比奈さんもハルヒもそれを見咎めない。むしろ朝比奈さんなどは心配そうに俺を見やり、ハルヒも古泉が俺の掌を確認してほっと息を吐いたのを見て自分の方も緊張を解くぐらいだ。
そうそう簡単に口から血が出てたまるかと思う俺であるが、まあいつものことである。やれやれ、と溜息をつきつつ、ゲームを続行しようと盤上に目を向けると、古泉はさっさと自分の負けが確定する位置に白いピースを置いてじゃらん、と音を立ててオセロのセットを解体してしまいこんでしまった。全く何をしてくれるのか。
「――――さん、帰りましょうか」
俺のささやかな非難の視線も気にせず、古泉が俺の分の鞄も持ち上げて俺に自分の上着をかける。
「おい、古泉。なんでだよ」
「あたりまえでしょう、あなた咳をなさったじゃないですか。団員の体調管理も副団長の責任というわけです。涼宮さん、それではこれで失礼します」
いくらなんでも心配性すぎるだろうという俺の意見は黙殺され、速攻で降りたハルヒの許可のもと、引きずられるように俺は部室から引きずり出され階段をほぼ駆け降りるようになってしまう。ずんずんと靴箱まで進んでゆく古泉に速度を合わせたものの、その拍子にまた咳が出てしまった。はっと古泉が立ち止まり、すみません、と謝って歩幅を小さくする。俺は普通に歩けるようになったけれど未だ古泉は俺の手を引くのをやめない。その手は冬というのに何だか熱く、俺の体温が低いのかそれとも古泉の体温が高いのかと考える間に俺は靴箱までたどり着き、偶然通りかかって古泉の目配せを受けた国木田の運んできた自分の靴に古泉の下駄箱前で足を入れる事になり、校門を出たところでやっとこいずみ、と切れる息で呼びかけて、
「何ですかいっておきますが拒否権は通用しませんし僕は死んでも貴方を逃がさない所存ですだからあなた逃げませんよね僕が大事ですものねああそうだ一ヵ月後に校外学習があるそうなので下調べの結果やはり貴方は保険医の付き添いがいるようですね機関から保険医を派遣しておきます貴方が気に病む必要はありませんこれは僕らの善意から出た事なのですよ森さんも機関のお偉方も本当に心配していらっしゃるのです分かりますねさあそれでは帰りましょうか」
…流石は古泉、流れるような弁舌である。
一旦閉口した俺に安心したのか古泉はさらに何も言わず歩を進め、いつもは分かれ道になる分岐点を俺の家の方へ歩いてゆこうとする。なあこいずみ。聞こえてるか。
「なんですか? 今更学校に戻るなんて冗談を言いだすんじゃあないでしょうねいっておきますがあなたが思っているほど貴方の体というものは」
「今日家族居ないんだ。お前んちとめろ」
口上を遮られた揚句俺の口から滑り落ちた半分でまかせという名の誘いに古泉の体ががくんとかしいだ。おーい大丈夫かと声をかけてみるが恨みがましく見上げられただけである。あーもうまったくあなたはとか、人をハルヒみたいに言わんで欲しいね。
いないんですか、という問いかけに未だあついままの古泉の手を弄る。
「うん、まあ。妹も俺が連絡すれば友達んちに泊るつもりなんだと」
「機関にそんな情報は入っていないのですが」
「まあなあ。ご近所づきあいの飲み会だからな。俺のせいで滅多に遅くまで飲めてないんだ、たまにはって思うだろ」
「………」
古泉ははあ、とため息をついた。俺はこれ見よがしに上目遣いで、だからとめて、といいかけて古泉に制される。分かりましたと言われて胸が弾んだ。そして古泉は一転して反対方向、俺も知っているマンションに向けて歩きだす。
「帰ったら熱を測りますよ。のどの調子が悪いようですからトローチも舐めてください」
「分かった」
「本当に分かってますか」
「うんうん」
適当に頷くと古泉が、分かってますよね、ともう一度強くいって半回転して俺に向き直る。笑えるほど真剣な顔で、何故かこっちも表情筋を崩すのではなく引き締めてしまった。
「…貴方が倒れたあのとき、僕が――」
どれだけ、と言いかけて古泉はまた前を向きなおす。握った手が微かに変な感じだ。
「…貴方は強い方だ。そして我慢強い。それは僕も知ってます。最近は風邪にもかかりにくいですね。だから僕らだってだまされたんです。貴方が健康体だと」
あの頃は本当に調子が良かったんだよ、と言っても聞かないだろうなあと思いながら俺は古泉の言葉を聞き流す。かつんかつんとレンガを歩いて、気がつけば目的地は近い。
「本当にね、詐欺だと思ったんです。夏をあんなふうに過ごしたあなたが、映画の撮影もついてきて思いものを運んでいたあなたが、冬に頭を打っても大丈夫だったあなたが」
その続きは知っている。まさか花見をしている最中に倒れるなんて。耳にタコが出来るぐらい何度も繰り返されたその台詞を飽きもせずまた繰り返し、古泉はぎゅっと俺の手を握る。俺は死なないよ、と言ってやろうとしてまた咳が出た。ああどうやら軽く風邪にはかかったらしい、と思ったところで古泉の手が微かに震えているのにやっと気がついた。さっきの違和感はこれかと思いながら握り返すとその震えが大きくなって、俺はなんだか泣きそうになった。
なあ古泉。俺は本当は知ってるんだ、自分の体が弱い事なんて。夏なんて本当に体力の限界だったし映画撮影は帰ってからすぐ寝たよ。なんだかんだいって、こうやってくれるのがお前の優しさだって言うのも知ってるさ。
でも俺はそれだけでは嫌なのだ。だからこうやって古泉の家に行きたいとねだるのだ。
「古泉」
「何ですか」
「…なんでもない」
これから行くお前の部屋で、お前にキスしていいかと聞いたら、お前はそうしてくれるだろう。けれど俺が求めるのは、それよりも先のものなのだ。お前はそれを果たしてこの先与えてくれるのだろうか。いい加減俺はキスどまりの関係にうんざりしていて、でもそれをなかなか言い出せずにいる。お前も少なからず俺と同じだと、俺は思っていいのだろうか。
そんな事をさっきからの調子にのせて言おうと思って、それでも何も言えない。どうにもこうにも胸の中に、多分たとえて言うならば壁だとかつっかえだとかそんなものが俺の思考を邪魔をして、いうべき事を言えない。何をいえばいいのだろうか。もし言ってしまったとしたら、古泉はどんな顔をするのだろう。
もしも、本当にもしも、古泉が作り笑顔も使わずに、困った顔をしたらどうすればいいのか、俺には全く見当がつかないのだ。
そんな事を考えているとじんわりと本当に涙が滲んできて俯いてしまい、それに気付いたのか古泉が立ち止まった。
「気分が悪いですか? もう少しですよ」
「ああ、うん」
悪いな、ありがとう、と古泉にはかなわないもののどうにか笑顔を作って、俺を心配そうに見降ろしている古泉を見上げると、古泉は何故だか驚いたように目を見開いた後無表情になり、その後唇をかみしめて顔を真っ赤にする。
そして、あれ古泉どうしたんだという暇もなく――俺はひあっ、と情けない声を出す羽目になった。世界が反転ならぬ九十度回転をした揚句、体が宙に浮きあがったのだ。いや、浮いたというのはほんの錯覚で実際は古泉が俺の肩から胴に後ろから巻きつくように熱い腕を回し、もう片方は膝の下に通して俺を支えて持ち上げていたのだが。
要するにお姫様だっこというやつだ。担ぎあげではないが確実に抱きあげではある。
「ちょ、な、何するんだお前…!」
思わずがくんと倒れ落ちそうになる上半身を何とか古泉の体に巻き付け、図らずもそれを助けるような体勢になってしまったが勿論それは俺の本意ではない。古泉、おまえはいきなり何をかましてくれるんだ。
「…軽いですね」
しかし古泉は暴れようとする俺の耳元でそう囁いた揚句、このまま運びますからじっとしていて下さいねと付け加えると俺の意志などお構いなしによりにもよってその体勢のままでおそらくはひと思いに駆けだした。
こちらはたまったものではない。振動も結構なものだし、必死にしがみついてはいるのできちんとしたお姫様だっこというやつなのだろうが、古泉も俺も男なのである。目立つ事は間違いないしなんだかいやだ。
しかしあまりの勢いに体がすくんだか何も言えないまま、うわ、ひ、だのと変な声を上げて運ばれる事しか俺はできず、結局古泉が自宅のマンションのオートロック自動ドアをくぐり抜けて俺を下すまで文句一つ言えなかった。なんだお前ほんとに俺の恋人かもっと丁寧に扱えこら。ちょっと我ながらいってる事が矛盾してる気がせんでもないがそこら辺は棚上げという奴だ。古泉は俺に惚れているのだからそれぐらい問題にはすまい。惚れられた強みという奴だ。
「古泉、何でこんな事――」
しかしいざその強みを活用すべく口を開いたその時、まあ古泉もやってくれたものでその無駄に綺麗な顔を近づけお姫様だっこに勝るとも劣らない伝統芸を発動した。口で口を塞ぎやがったのである。
流石に俺は何も言えず、その上古泉の舌が口の中に入り込んできて本格的に頭の中が真っ白だ。キスならまあ恥ずかしい話、 その、結構よくねだるから慣れっこなのだが、こんな人目につく場所でしかも今までの浅さが嘘のような深さなのだ、冷静でいろと言われる方が無理である。
舌の動きは乱暴で、歯列をなぞり、俺の舌を力づくで絡め取る。俺はそれに翻弄されて戸惑って、いつの間にかエレベーターのドアに押しつけられ、それが開くと同時にそのまま連れ込まれてしまった。
ドアが閉まると同時に、は、と息をついて古泉の唇がやっと離れる。俺は何か言いたかったのだと思う。けれど喉まで出かかったあれやそれやはすっかり迷子なのである。むしろこの場面で冷静にものを言える奴がいたらお目にかかりたい。
俺が口を開けたり閉めたりを繰り返しているのにはお構いなしに、狭まった視界の中、は、とまた息をついた古泉は、古泉は耳まで顔を赤く染め抜き、琥珀の瞳を潤ませて俺の顔の横に両手をつく。おいちょっと雰囲気えろすぎるぞ、とかなんとか妙な事を口走りそうになったのだが、俺も同じような息をつくだけで、それの何がどう作用したか、ごくりと古泉の喉が鳴る音が妙に大きく聞こえた。
そしてゆっくりと、古泉の唇が小さく震える。あなたが、――――。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。
いやちょっと待てそれは何だとか俺は仮にも男だぞとかもうたくさん言葉があふれそうでそれでいて一つも口から出ていかない。ただとにかく顔が熱くて心臓が痛いぐらい跳ねている。もうなんというか、もうほんとうに結構な打撃だったのだ。なんだ今の。なんだいまの!
古泉がまだ耳まで赤く染まったままでふいとそっぽを向いて、せっかく我慢してたのに、と続けたあたりで俺の頭は更に沸騰する。つまり何だ、その、あれなのか。今まで以上の深いキスをしてしまいたいだとか、それより先に進みたいと思っているのは俺だけじゃあなくて、でも古泉は我慢していたのだと、そういうことなのか。
エレベーターの扉が開くと、古泉は俺の掌を握って自分の部屋へと歩き出す。見上げた先には亜麻色の髪と、まだ赤く染まりきった耳が揺れて震えている。それを見ながら、明日までに急いで風邪を治すべきだと思った。同時に頭の中を回っていた古泉の言葉がひときわ大きく響いて、ああ、もう!
あなたが可愛らしすぎるからいけないんです、だなんて口説き文句、反則だろうがこの優男!
→gdgdです…すいません。でも私にはこれが精一杯でした…。
病弱古キョンを書いている途中にお姫様だっこを思いつき、そのまま調子に乗って書き始めたはいいものの、お姫様だっこの後の展開に躓いて一週間ぐらいかかってしまいました…なんということでしょう… ←