茨を時に切り分けるように、避けるようにして見つけ出した小道の先に、一軒の簡素な木造の家が見えた。
「いけません、イツキ様! そちらに入ることは旦那様に禁じられております!」
「何が禁令です、笑わせる。僕は、僕は絶対に納得できない…!
どうか、邪魔しないで下さい!」
縋り付いてくるメイドを振り払うようにして引き離し、家のドアに手を掛ける。止めて下さい、と叫ぶメイドの声を無視してノブを回した、その時だった。
「…お兄さん、誰? えらい人?」
幼い声が脇から聞こえ、思わず下に目を向ける。
そこにいたのは、焦げ茶の髪に、何ともいえない瞳をして、ぼろぼろの服を着て、ぼろぼろのぬいぐるみを抱えている――
――小さな、果実だった。
絢爛な衣装をまとった人々、豪奢な調度品、美味の限りを尽くした料理。けれど主役である彼の顔は、確かに笑顔であったけれども何処か影をおびていた。
でも僕には関係ない。その訳を知っていても、僕にはどうにも出来ないからだ。
今宵は僕の息子である彼の婚約パーティ。政略結婚である上に愛はない。彼はそこの所だけは変に演技がうまくて、婚約者を誤魔化してはいるけれど、彼の思い人は他にいる。そしてその相手は、僕の知らないどこかの誰か。
それを考えるだけで体の芯が沸騰しそうで、けれどそれでも僕は酒をあおるしかない。
いつにない勢いで酒を呷る僕が気になったのか、彼が輪の中心から抜け出て僕に近づいてきて、兄様そんなに飲むなよ、と僕の手からグラスを取り上げる。
「いいじゃありませんか。可愛い弟の晴れ舞台です。兄が喜んではいけませんか?」
「限度があるんですよ、限度が。兄様はそんなに酒の強い方じゃなかったはずだ」
とにかくこれは駄目、と言ってグラスを脇のテーブルに置く彼。その瞬間項が清掃の隙間から覗く。吸い付きたくて堪らないけれど僕はそんな立場ではない。その役割は婚約者、もしくは彼の愛するどこかの誰かのものだ。
なんだよその不満そうな顔、と愛らしく笑う彼にふと腹の底からわけの分からない衝動がわき上がってきて、その手を引いて耳元で囁く。
「――寂しいんですよ。息子のように育てた可愛い弟がいなくなるのは」
「んなっ…!」
兄様は顔が近い! と顔を赤らめてのけぞる彼を見て思わず笑みを浮かべてしまう。おや、これはいけないことだ。
「…俺だって、な…」
そうそう容易く人生決められようとは思ってなかったっつの、と本当に小さな小声で呟いて、彼は僕を見上げる。
「…畜生、ハルヒと踊ってくるよ」
「行ってらっしゃい、弟君。婚約者殿の足を踏まないように」
「言ってろ、酔いどれ」
その調子じゃもううまくダンスも踊れないだろ、と言外に告げて彼は再び輪の中心に戻り、扱く不本意そうに、しかしそれが照れ隠しに見えるようにしてハルヒ嬢の手を取った。
その狡猾なまでの優しさがどこから来たのか僕は知らない。僕が関わりのないところで何か口さがない連中と争いでもしたのだろうか。
――それとも、彼が本当に恋い焦がれる相手が彼にその表情を、仕草を与えたのか――
いけない。思考が堂々巡りになっている。
結局彼の言うとおりだな、と溜息をつき、頭を冷やすために裏庭へ向かう。途中、音楽に合わせて踊り出した彼と目があった気がして、喉がやかれたような気分になる。ああ、まるで劇薬。
それすら嬉しくて、裏庭にたどり着いた僕は一人、僕はその味を堪能する。胸も喉も焼けるように熱いけれど、慣れてしまえば僕にとっては心地よい痛みだった。
この痛みを味わい尽くし、それが消え去るまで僕は待つ。その頃にはパーティーもお開きになっているだろう。
そしてパーティーの後、見え透いた言葉の代わりに彼に告げるのだ。彼が知りたがっていた真実を教える、と。
最初から恥ずべきは僕の身なのだ。だからもう躊躇わない。眩しい闇に身を委ね、これからも止まることのないはずの哀しみを抱えてゆく決心をつける。
彼は案の定、何も警戒せずに僕の部屋にやってきた。否、少しは緊張していたのだろう。僕がこれから大事な話をすると信じているようだから。
早く話してくれ、と目で急かす彼に、まあこれでもどうです? とワインをグラスに注ぎ入れて差し出す。
「少し落ち着いて下さい」
「………」
彼はふん、と鼻を鳴らしてワインを受け取り、少し揺らして一気に呷った。
「おや、急いでますね。さっきは僕を咎めたくせに」
「そんな事はどうでもいい。さっさと、俺の本当の親は誰か――」
テーブルに手のひらを叩きつけて半ば椅子から立ちあがり、いってくれ、と言いかけたところで、彼の膝がくずおれる。
「えっ、あ、あ、え」
「おや、大丈夫ですか?」
動けないですよね、と自分でも分かるぐらい嫌らしい笑みを浮かべて僕は彼に手をさしのべる。それで全て分かったのか、彼がぼくを潤んだ瞳で睨みつける。それが僕を更にそそる事なんて、この子には分からないだろう。
「…愛していますよ、僕の可愛い弟、そして――」
――息子である、貴方をね。
彼が僕についてきた理由。その答えを聞かされ、彼の瞳が見開かれる。それに僕は笑みを押さえきれない。ああ、何て純粋な子なんだろう。
「…前に相談してくれたことがありましたね。ハルヒ嬢の他に、好きな人がいる、と」
彼の体を抱え上げ、ベッドまで運ぶ。妻を持ったことがないが故にいつも狭かったベッド。彼の母親はここで眠ることはなかった。あの小屋の中で父に閉じ込められ、彼女は衰弱して死んでしまった。僕が父に反抗し、それを慰めてくれた父の妾である彼女に手をつけてしまったのが全ての始まりだった。
父は彼女を敷地内の小屋へ押し込めた。そしてそこで彼は生まれ、僕が彼の母親を看取った後、僕の弟として引き取られた。僕は彼を時に弟として、時に息子のように可愛がった。父が死ぬ時言い残すまでは、僕も流石に彼が彼女と父の子供だと思っていたのだけれど、それでも彼へ募ってゆくこの想いを止めることは出来なかった。
彼が僕を呼び出し、そのまっすぐな瞳を僕に向けて、好きな人ができたんだ、と告げてきても、それは全く変わらなかった。
「でもね、そんなこと、許したくないんですよ、僕は。貴方は僕が拾ったのに。僕が育てたのに」
だから一回抱かせてください。
そう告げて彼の胸元に手をかける。ボタンをゆっくり外してゆく。
「…なあ、兄様」
彼がなぜか力を抜いてベッドに身を預け、僕に言葉を投げかける。
「なんですか? 何を言っても、止めませんよ」
あらわれてゆく白い肌から彼の顔に視線を移す。彼はぼんやりとしたような無表情でこちらを見ている。最低な男だと思われただろうか。けれどそれでも良い。ここで彼を抱いて、僕は一度きりの思い出とこの想いを一生抱えて生きてゆく、そう決めたのだ。
「僕には血なんて関係――」
ないんです、と言い切ろうとしたところで、彼が僕の背に手を回してきて、思わず言葉を失う。
「俺は」
彼の無表情が変わってゆく。
「あんたに拾われた」
瞳はこれ以上なくとろけたものに。
「あんたに、育てられた」
舌は誘うように揺らめいて。
「だからさ」
唇は赤く誘うように、その端はつり上がって。
「あんた以外、好きになるわけないだろう…?」
完成された表情は、極上の悦びを手に入れた、僕以上の獣の笑み、そのものだった。
「―――、くん…?」
呆然とする僕を、彼の唇から発される甘い劇薬が誘う。
――さあほら早く、つかまえて。
彼の肌に、彼の唇に、彼の声に、彼の全てに溺れてゆく。
捕らえた、と思ったけれど、捕らわれたのはまるで僕だった。無数の棘がこの身を貫き磔たように、甘く甘く、未だ酔いの覚めない僕を捕らえる。
この想いは僕の決心と共に虚空へと消えるはずだったのに、何故、何故彼は僕をここまで狂わせるのか。
淫らに揺れて啼く彼は、まるで彼ではないようで、ああけれど確かに彼で。
その目に浮かぶ涙を舐め取ると、また嬉しそうに、笑った。
彼と彼女の挙式は滞りなく行われ、彼女が赤子をはらむのもそう先の事ではないだろう。
けれど時折夜の帳が落ちた頃、僕の部屋のドアが叩かれる。
僕は彼を訪ねない。ただただこの閉じられた世界で彼と二人、溺れていられればそれで良い。
なぜならば僕の劇薬は、その足跡も残さずに、僕に笑いかけるのだから。